前の記事に頂いたコメントより

前の記事に頂いたコメントをヒントに、再構成してみました。

国が本気になれば国民の生命など何とも思っていないのではないか。
みんなが意見を送ったら変わるというような生易しいものでは無くて、したたかで超おっかないものではないか。
国が考えを変えたとしても、それは国民の意見が通ったというよりは、釈迦の手の中の孫悟空の如く、国に遊ばれているだけはないか。本気を出せば瞬く間に握りつぶされてしまうのではないか。

国というのが何を指すか、ということは難しいところですが、とりあえず事務方、国家公務員の組織と、政権党との連合体として。
はっきり言って、国を買いかぶりすぎです。
まがりなりにも民主主義国である国の機関というのは、思うように政策を進めることはそう簡単にはできません。
政権党や閣僚などは、選挙で負けたらタダの人ですから、有権者に反感を受けないような主張をする傾向があります。
なので、よほどの信念と知識のある政治家でないと、継続的な政策が取れない場合もあります。

おまけに、この社会保障少子高齢化の問題は、誰が担当しても一筋縄ではいかない。
介護保険以外を含めた社会保障政策で、ここ数年、首尾一貫して進められた政策は、おそらくひとつもありません。
「愚かな民を導いて、この国の未来をエリート官僚が切り開く」というような幻想は、国家公務員の誰も思っていないでしょう。
仮にそうであったとしても、意見メールを送ったからといって処罰も社会経済的不利益も受けません。
原発事故対応など、たしかに大きな問題はありますが、そういう国や東電の対応について批判の意見を送っても、ブログやツイッターで意見を表明しても、「超おっかない」ような目には遭いません。

今のままでは、社会保障介護保険は続かないのではないか。
そういう点でみれば、今回の要支援サービスの見直しの件は、良い転換期かもしれないのではないか。
先をみれば破綻が危ぶまれる状態で有るのならば、それを見越して破綻しても対象者をサポートできる体制を今から模索する事は、悪い事ではないのではないと思う。

はっきりいって、要支援を切り捨てたぐらいでは、財政はたいして好転しません。
むしろ、(財政的にも)弊害の方が大きいでしょう。
少なくとも要介護1以下、できれば要介護2以下を除外するぐらいでなければ、「切り捨て」によるうわべの効果すら得られません。
そして、その場合、政権党は潰れます。

1号保険料と財源の関係では、団塊の世代が1号保険料を負担するようになれば、むしろ好転する可能性すらあります。
問題は、かれらが後期高齢者になる頃です。
それまでに対策を採る必要はあります。
私は、軽度者の切り捨てより、利用者負担割合の引き上げの方が現実的と思いますが、割合に差を設けるなら、軽度者の負担を重くすることは得策ではなく、高所得者低所得者とで分ける方が妥当でしょう。
これは反対が多いかもしれませんが、在宅1割、施設2割とか、いろいろ考えられるところです。
まずいのは、団塊の世代が要介護者になるからといって施設を増やすこと。
団塊世代が死に絶えれば、維持できなくなります。)

保険から外れて、責任主体は自治体、サービス提供主体はボランティアというのであれば、奉仕の心さえあるのなら、現在の介護保険で制限されていることでもサービスできるようになるのではないか。
私達が守らなければならないモノは、保険給付体制ではなく、高齢者の生活ではないか。
だとしたら、大袈裟に言えば、今回の見直し方針は、誰にも縛られる事なく、相手が望み、自分達がしてやりたいと思う事を、気が済むまでしてやれる事になるのじゃないかと思うのだが。

ボランティアが確保できなければ、絵に描いた餅です。
「奉仕の精神で頑張るボランティア」は美しいかもしれませんが、行政がなすべきことを美辞麗句で人々の善意に押しつける姿勢は醜悪です。
人々の善意を活かす政策はいいですが、善意に頼った政策はダメです。
だいたい、過疎地で民生委員のなり手すら確保が難しいような地域で、介護ボランティアなんかどうやって確保するのですか。

それと、「自分達がしてやりたい」「してやれる事」という姿勢は、思い上がりです。
ボランティアでも、対人援助には客観性が必要です。
「相手が望むこと」(デマンズ)より「必要なこと」(ニーズ)を行うべきです。

金がないから何もしないのでは、国と変わりないのではないか。
保険に頼らずに、地域全体でボランティア主体により高齢者をサポートする。
そういう社会が、今後の日本国のスタンスであるべき。
それを受け入れられない国民であるのなら、それは、結局、そこまでの国民性ってことではないか。
努力・根性・義理・人情~ 素敵な素敵な合言葉~ ってフレーズは、今や死語か?

まず、自治体には国以上に金がありません(債務総額は国の方が大きいですが)。
より正確にいえば、自治体格差がとんでもなく広がっています。
銀行経営や五輪誘致に失敗して、再度、誘致をやり直せる財力の自治体もあれば、職員の給料を大幅に引き下げてもなお貧乏な自治体もあるのです。
この構造を変えない状況で、国と変わりないなどという批判は的はずれです。

家族が、地域が、小さな自治体が介護を担わされて、虐待や心中が起き、介護の社会化を目指す制度がスタートしたのです。
現実に、家族や小地域だけでは対応しきれないことがきっかけではありますが、結果として、家族介護者の負担を軽減し、家族介護のための離職者防止(労働者確保)にも一定の成果を上げるなどの社会的効果も出てきました。
(だからこそ、2号保険料の半額を雇用主が負担しても、それほど不公平とはいえない。)
介護を「努力・根性・義理・人情」などの美辞麗句でボランティアに押しつけるのは、1号高齢者だけでなく2号被保険者や企業などが負担した保険料を泥棒しているのも同じでしょう。
国民性の批判をする以前の問題です。