障害者の生きる権利(人道的見地以外から)

相模原障害者施設殺傷事件の加害者の言動について、いまだに肯定する意見が出たり、反論するための有効な理由を見出すのに苦労している人々がいることに対し、私は驚いています。

 

これまでの報道などからすると、加害者の主張は、

・言葉もしゃべれないような重度の障害者には生きる価値がない。

・そのような人たちを生かしておくことは社会の負担になっている。

というようなことだろうと理解しています。

(この場合の「理解」は、もちろん肯定するという意味ではありません。)

 

言語によるコミュニケーションを取ることが困難な障害者を殺すべきか、という質問に対しては、明確に否定できます。

根拠を探すまでもないことですが、たとえば日本国憲法基本的人権生存権の保障。

同様の規範は、他国の憲法その他の多くの場所で見ることができます。

 

では、重度の障害者を生かしておくことが社会の負担になっているのでやめるべき、という主張に対してはいかがでしょうか。

 

人道的・非人道的というような議論や、障害者や重度という言葉の定義は置いといて、人類、ホモ=サピエンスの集団の歴史としては、重度の障害のある個体を生かしておくこと(食糧等の資源を節約するために死なせるのではなく、分け与えて共に生きること)が、その集団の存続に有利である、という方向に発達してきたのではないかと私は考えています。

 

考古学や人類学などの分野だったと思いますが、狩猟や採集に出かけられないような先天的ハンディキャップのある個体が、そこそこの年齢まで生存したとみられる証拠が、人骨などの形で発見されているようです。

この人たちが言語的コミュニケーションを取れたかどうか、ということについてはわかりませんが、少なくとも、重度の障害のある個体が、その時代の平均寿命的な年齢までは生かされていた、ということは間違いないようです。

 

重度障害のある個体が生かされていた方がその集団の存続にとって有利、という例で、わかりやすいのは戦いに従事していて傷ついた、という場合でしょう。他の集団(他の部族、他の地域、他の国家など)と戦って重傷を負い、手や脚やその他の器官を失ったとしても、命さえ保たれれば生き続けられる、というのは、その集団の戦闘における士気に直接つながります。戦いの場ではなくても、災害から集団の構成員を守ろうとして傷ついた、というような場合があったかもしれません。

 

では、先天的な、あるいは出生時の原因によりハンディキャップを負った人はどうでしょうか?

もともと人類の歴史の途中のどこかまでは乳幼児の死亡率が高く、ハンディキャップのある子どもたちは生き残るのが非常に大変だったとは思います。ですが、出征直後にただちに殺したりせず、なんとか生きるように支援する集団であったり、積極的な支援はしないまでも子どもを生かそうとする親(特に母親)を見守ろうとする集団の方が、存続しやすかったのではないでしょうか。

ニホンザルのボス猿が、雌猿の支持を得ないと集団の統制が難しくなるように、高等霊長類の集団では子どもの親(特に母親)の支持があった方が集団のコントロールがしやすかった可能性は十分にあります。

ひょっとしたら、宗教的、あるいは呪術的な事情があったかもしれません。

障害のある重度障害のある個体(子どもでも大人でも)は、神様に近い、あるいは神様そのものと考えられている集団もありました。今でもあるかもしれません。そういう個体は、欠けているものがある代わりに何か別の器官が鋭敏であったり(目が見えなくて聴覚や嗅覚が鋭敏とか)、気候上の異変に気がつきやすかったり、で、集団の危機回避に有益な場合があったことも考えられます。ひょっとしたら(これは現代では「非人道的」ですが)災害、疫病などのときに人柱として犠牲にされる存在だったかもしれません。

 

人類の歴史の中で、集団は数限りなくあったので、障害者に対する支援の程度もさまざまであったと思います。気候の変動、飢饉のような食糧危機は珍しくなかったでしょうから、その際に障害者への食糧供給を減らしたり、死なせる選択をして何とかして存続した集団もあったでしょう。障害者に食糧を分け与え続けようとして集団の存続自体が困難になった可能性もあります。だから、ある程度の食糧が確保できるという環境は必要かもしれません。

ただ、結果として、たとえ重度の障害者であっても生きる権利を認め、食糧だけでなく社会参加の場をもその意思や能力に応じて提供しようとする考え方の集団(国家など)が生き残ってきたようです。

つまり、言語的コミュニケーションが取れるかどうかにかかわらず、重度の障害者であっても何らかの形で生かそうとする集団の方が、そうでない集団よりも存続しやすく、その結果として障害者の生きる権利を認める社会が主流になってきた。だから、「(重度)障害者を生かしておくことは社会の負担になるからやめるべき」という考え方は、「非人道的」という理由以外でも否定できる。私はそう考えます。

 

蛇足ですが、「日本社会」とか「法治国家」とかいう集団の存続に有利・不利という観点で考えると、その集団の規範(法令もその一種)に反して、一個体の判断で障害者を殺傷する存在は集団の存続にとって不利ということになります。

だから、この事件の加害者を社会という集団から排除することは集団の存続に有利(または必要)ということになります。

その排除の方法を、死刑にするか、その他の手段にするか、ということについては、やはりその集団の規範により決定することになるのでしょうが。

 (2020/02/16 14:28 加筆修正しました。)