野村克也さん

野村克也さん死去、84歳 名捕手、名将、名解説
[日刊スポーツ 2020年2月11日13時55分]

プロ野球南海(現ソフトバンク)で捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神楽天でも指揮を執った野村克也(のむら・かつや)さんが11日午前3時半、虚血性心不全のため死去した。84歳だった。京都府出身。

野村氏のプロ野球生活は激動の連続だった。峰山高時代は無名の存在。54年にテスト生として南海に入団した。3年目にはレギュラーに定着。63年には52本塁打、65年には3冠王に輝くなど強打の捕手としてチームを支えた。大学野球の花形で華やかな巨人・長嶋とたたき上げの自身を比べ「長嶋はヒマワリ。私は浜辺に咲く月見草だ」とたとえた名言でも知られる。70年から選手兼監督としてチームを率い、73年にはリーグ優勝を果たした。

だが、77年に女性問題が発端でフロントの信頼を失い、シーズン中に監督を解任された。当時、交際していたのが17年12月に亡くなった沙知代夫人だった。南海退団後は“生涯一捕手”としてロッテ、西武でプレー。80年限りで現役を引退した。

野球解説者を経て89年オフにヤクルト監督に就任。データを重視する「ID野球」を掲げてチームを鍛え、9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた。

ヤクルトでの実績を買われて98年オフ、三顧の礼阪神監督に迎えられた。翌99年の春季キャンプでは、初日夜のミーティングで、自らが執筆した分厚い教本を全選手に配り「成功は結果であって、目的であってはならない」などの「ノムラの考え」を約1時間半にわたって講義。チームの意識改革に取り組んだ。また、広い甲子園で機動力を生かすため、赤星ら俊足の選手をそろえ「F1セブン」と命名するなど低迷期の阪神を変えようとしたが、結果は出ず3年連続最下位に終わった。

01年オフ、沙知代夫人の脱税問題が浮上し引責辞任。しかし、この3年間が03、05年の阪神リーグ制覇の礎をつくったともいわれる。

その後、社会人シダックスの監督を経て楽天監督を務め、09年に退団。現場を離れてからも評論家、球界のご意見番として各メディアでも活躍していた。

(以下略)

https://www.nikkansports.com/baseball/news/202002110000156.html

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監督や評論家としてのイメージが強い方が多くなってきていると思いますが、

現役時代の成績だけで見ても、実はとんでもない選手でした。

三冠王としては戦後初、また激務である捕手の三冠王としては大リーグでも例がない。

首位打者は、三冠王を獲得した1965年だけでしたが、本塁打王は8年連続を含む9回、打点王6年連続を含む7回、通算記録にしても、「世界の王」がいなかったとしたら本塁打を含めてNPB記録1位に今もいくつか名を残していたと思います。

捕手として全試合全イニング出場というのも、今後絶対達成されないでしょう。

(今とは考え方も違うのでしょうが。)

 

あえて言いますが、彼の現役時代のように、セパ両リーグの人気差が大きくなかったら、もっと注目されていたでしょう。

 

他の報道などによると、自宅の浴槽でぐったりしていたのを家政婦が発見して病院に搬送され・・・ということではありますが、野球に限らず、プロスポーツに関わる人々からすれば、うらやましい生涯ということになるのではないでしょうか。

南海の監督を解任されていなかったら、その後のホークスのあれほどの暗黒時代はなかったかもなあ。

 

ご冥福をお祈りします。