「吉田知那美」論1

新型コロナや政治、社会問題、国際情勢などについて書くのが嫌になると、カーリングの話題などに逃げたくなる。

今回は、ロコ・ソラーレ吉田知那美選手について。
なお、全ての登場人物に対して敬愛の念はもっているが、敬称略になる。

吉田知那美はネット上で人気があるようで、ほめる人、批判する人、擁護、中傷、さまざまな書き込みがあふれている。
ほめるのも悪口も人気のうち、という観点に立てば、ロコ・ソラーレだけでなく、日本カーリング界でトップだろう。

 

知那美について書かれたもので一番おもしろかったのは、アンサイクロペディアの彼女の項だ。
吉田知那美カーリングチームに住み着く座敷童子ざしきわらし)である、という前提で書かれている。
座敷童子というのは子どもの姿をした妖怪で、それが住み着いている家は栄え、いなくなった家は衰退するという伝説がある。

つまり、当時の北海道銀行フォルティウスは、チーム結成後わずか3年でソチ五輪出場をつかみとり、本番直前でレギュラーの小野寺佳歩がインフルエンザに倒れた危機をリザーブの知那美が救ったこともあり5位入賞を果たした。
ところが、大会直後に知那美は戦力外通告を受け、失意のうちに故郷(北見市常呂町)に帰り、やがてロコ・ソラーレに加入した。
ロコ・ソラーレでは中部電力を去った藤澤五月を受け入れるなどの幸福事象が起き、ついには平昌五輪で日本カーリング界初の銅メダルを獲得するに至った。
一方、知那美を追い出した北海道銀行フォルティウスは衰運に・・・というようなことがアンサイクロペディアには記述されている。

 

実際には、この後もロコ・ソラーレ北京五輪で銀メダルを取り、一方のフォルティウス北海道銀行とのスポンサー契約も終了し・・・ということで、「座敷童子」効果はまだ続いている、というような文章も書こうと思えば書けるだろう。

だが、ソチ五輪の前後ぐらいから、もう少し別の角度で見ていきたい。

 

創設時の北海道銀行フォルティウスは、小笠原歩(フォース・スキップ)と船山弓枝(サード・バイススキップ)が中核だった。
吉田知那美は創設メンバーの一人だったが、のちに身体能力に優れた小野寺佳歩(セカンド)、ベテランの苫米地美智子(リード)が加入すると、リザーブ(フィフス)に追いやられることが多くなった。
チームは2013年9月のソチ五輪世界最終予選日本代表決定戦で、藤澤五月率いる中部電力を破り、同年12月の世界最終予選でソチ五輪出場権を獲得したが、知那美はリザーブで、実出場はない。

翌2014年2月にソチ五輪が開催されるが、そのときのカーリング競技実施の直前に小野寺佳歩のインフルエンザ罹患がわかり、知那美が出場することになった。

ショット成功率については、必ずしもその選手の出来を正確に表すものではない。

<参考>
過去の五輪ショット成功率
https://jukeizukoubou.hatenablog.com/entry/2022/06/15/221704

ショット成功率・再考
https://jukeizukoubou.hatenablog.com/entry/2022/07/19/223854

そういう前提ではあるが、小野寺の代役としての知那美のパフォーマンスは、それほど悪くない。
というより、この頃の「本職」であるはずのリードよりも数字がよい。

 


知那美がセカンドとして出場した試合で7割台後半以上のショット成功率を挙げた4試合は勝利しているし、その中には、知那美がファンレターを出したこともあるミリアム・オットー率いるスイスも含まれている。
78.5という数字は、ソチ大会までの日本代表チームのセカンドとしては、バンクーバー大会の本橋麻里(78.8)に次いで高い。
(なお、小野寺の数字が悪いのは、インフルエンザの回復直後という事情もある。)

知那美のキャリアはジュニア時代から日本選手権などでは華々しいときもあったが、五輪や世界選手権クラスの大会の氷の上に立ったのは、このソチ五輪が初めてだったはずだ。
どちらかといえばテイクショットが得意な小野寺と異なり、どちらかといえばドローショットが得意な(この当時の)知那美の特性に、スキップの小笠原が配慮した可能性はあるとしても、ピンチヒッターとしては十分な働きだった。

 

(つづく)