中国と周辺の歴史4

その伍 清朝の「遺産」

 

 前の記事で、「清を除き」と書きました。
 この清朝は、やや特異な王朝で、漢民族からすれば異民族の征服王朝という見方ができますが、そうではない伝統的な中華王朝という見方も可能です。
 中国東北部に興ったこの女真族の勢力は、山海関(万里の長城の東端)で明の軍勢と対峙していましたが、明が李自成の乱により滅ぼされ、明の守将(呉三桂)に引き込まれる形で、李自成の勢力を討ちました。前王朝・明を滅ぼしたのではなく、明を滅ぼした逆賊を討伐した、という大義名分です。
 このときの皇帝(順治帝)から清は何代か名君と呼ばれる君主が続きました。明の旧領を平定し、南下してきたロシア勢力をスタノヴォイ山脈(外興安嶺)まで押し返し(ネルチンスク条約)、モンゴルや新彊、チベットを勢力下に収めました。勢力下には収めましたが、直接統治ではなく、それぞれの民族の慣習下に少なくともある程度は自治を認めていたので、その点では今日の中国政府よりは優れていた、というべきでしょう。
 中国本土、漢民族の居住地域は直接統治でしたが、清は明までの正当な王朝を継ぐという立場で、儒教科挙など、伝統的な中国文化は尊重しました。例外としては辮髪の強制で、僧侶など除外規定はあったものの、中国人といえば辮髪というイメージが日本でもありました(「キン肉マン」に登場するラーメンマンなど)。また、チャイナドレスとして知られる女性衣装は、漢民族ではなく満洲系の文化の流れを引くものです。「満漢全席」という言葉がありますが、食文化にも、満洲系やモンゴル系などの料理が入ってきています。
 それで、満洲民族、あるいは女真族ですが、中国の少数民族としてかれらの自治区などは設けられていません。清の支配層として漢民族の文化と同化し、あるいは多少は影響を与え、中国社会の中で生き続けているのではないかと思います。チベットウイグルなどと異なり、迫害されているという報道も聞きません。ただし、満洲系の文化、特に言語面などが生き残るかどうかは私にはわかりません。
 なお、後で触れる予定ですが、台湾も清の時代に、初めて中央政権が支配するところとなりました。清は、歴代中国王朝(ただし、何かと区分や比較が困難なモンゴル帝国系は含んでいません)の中で、最大の版図となりました。
 現在、中国はインド方面で領土紛争を抱え、ブータンの領土を侵食しようとしていますが、これらの元は清の領域を基準にしている感があります。清の最大版図のうち、(旧)ソ連領、それにソ連の一定の影響下にあったモンゴル人民共和国については、社会主義共産主義)国の「オトナの事情」によるものか、中華人民共和国は権利主張をしていません(その代わり、ゴビ砂漠の手前側の内モンゴルについては、モンゴル民族が住んでいようと中国側の領土としています)。インドやブータンの側は、英国の植民地や実質的支配下で、英国の外交官(マクマホン)が自国に有利な線を引いたこともあり、中国側にしてみれば不利な国境線になっています。同じく英領だったビルマとの国境も同様ですが、こちらは別のオトナの事情で解決しています。
 ということで、インド方面についての中国側の主張にも、全く根拠がないともいえないのですが、平和的協議によらず実力行使をするというところが、特にブータンのように軍事的小国に対して行っているところが、「大国としての振る舞い方を身につけていただく必要がある」と某国外相に指摘される所以かもしれません。
 なお、台湾に移った「中華民国」も、基本的には清の最大版図を基にして、領土主張をしてきました。最近は(台湾独立論なども出てきて)知りませんが、当初はモンゴルや旧ソ連領なども含めて「中華民国の(回復すべき)領土」としてきました。ただし、これは中華人民共和国も同じですが、旧ソ連の領土、現在のロシア領である沿海州、外満洲とも呼ばれる領域については、小規模な国境紛争などを除き領土主張をしていません。この地域は、ネルチンスク条約(1689年)で清の領土として認められましたが、アイグン条約(1858年)でスタノヴォイ山脈からアムール川までがロシア領でウスリー川までが両国の共同管理に、北京条約(1860年)で豆満江から北の全ての土地がロシア領になってしまいました。
 これは公平に見たところ、アロー戦争など清が欧米列強に痛めつけられたことにロシアが付け込んだ、どさくさ紛れの不平等条約です。清朝など女真族の故地の一部、というより、古くは渤海の時代にまでは遡る歴史的領域ですが、実力行使はもちろん、「中国の歴史的領土」というような学術的な主張すら行っていないようです。
 これは、「不平等条約でも条約は守る」というような「ルール重視」の姿勢ではなく、旧ソ連やロシアが軍事的には超大国並みである、ということが影響しているように思えます。つまり、強い相手との約束には従う。弱い(と判断される)相手との約束は、その限りではない。こういう姿勢は、大英帝国が世界の覇権を握っていた19世紀ぐらいまでは、国際関係の現実だったのかもしれませんが、今日では、「時代遅れ感」が目立ちます。

 

(つづく)