中国と周辺の歴史3

その肆 新疆ウイグル自治区内モンゴル自治区

 

 歴史的に見て、中国の伝統的領土といってよい香港やマカオ。逆に、中国固有の領土であったとは言い難いチベット
 これらのどちらとも異なり、一概には定義しにくいのが、新疆ウイグル自治区内モンゴル自治区などの地域です。
 中央アジアから北アジアにかけて、現在のカザフスタンモンゴル国なども含む広大な領域は、古くからさまざまな民族が活動してきました。

 

 匈奴春秋戦国時代から五胡十六国の頃まで、大帝国を築いたり、分裂したりしながら、漢などに大きな影響を及ぼした。民族系統未確定。


 鮮卑:漢の頃に匈奴から独立したとされ、その流れが南北朝時代には北朝としてしばしば黄河流域を支配した。隋や唐の帝室もこの血を引く。言語的にはアルタイ系で、モンゴル系かテュルク(トルコ)系が有力だか確定していない。


 突厥鮮卑系とみられるモンゴル高原柔然から独立。南北朝や隋、唐の時代に略奪したり入朝したりした。東西に分裂し、やがて滅亡した。テュルク系とみられる。


 ウイグル:唐の時代にウイグルを滅ぼしたり安史の乱で唐を援助したり勢力を張るが、それ以前から存在した模様。モンゴル帝国時代にも有力で、中央アジア一帯に末裔が広がった。テュルク系。


 遼(契丹):唐滅亡後の五代に勢力を張り、現在の北京など中国北部からモンゴル付近にかけて支配した。宋(北宋)には経済的に依存し、軍事的に圧迫したが、金に滅ぼされた。モンゴル系とみられる。


 金:満洲付近で遼に従属していたが、宋と結んで遼を滅ぼした。その際、宋側の背信行為があり、宋の首都も攻略して南に追いやった(南宋として王朝は継続)。モンゴル帝国に滅ぼされた。女真、女直とも呼ばれるツングース系民族で、後の清朝と同系統。


 西遼(カラ・キタイ):金に滅ぼされた遼の皇族の一部が逃れ、中央アジアに建国。最後の皇帝は前皇帝から簒奪した娘婿であったが、結局モンゴル帝国に滅ぼされた。


 モンゴル:説明ほとんど不要。ユーラシア大陸の大半を領域に収めた。勢力としては分裂し、中国王朝としての元は100年あるかないかで北に撤退したが、モンゴル系の諸勢力は、ユーラシア内陸部にそこそこ後まで残存した。

 

 最後の王朝・清を除き、ざっと有名どころを挙げてみましたが、他にも多数の民族が中国周辺内外で盛衰を繰り返しました。もちろん、これらの民族だけでなく、漢民族の王朝もこれらの周辺地域の覇権を握った時代があります。
 これらの民族間で領域を厳密に線引きすることは困難でしょうから、たとえば現在のように全体を中国という一つの国にして、内部に自治区などのエリアを設ける、という方法自体は現実的な対応と思います。問題は、自治権がきちんと保証されているか、ということです。ウイグル人に対する中国政府の弾圧はすでに国際的に有名ですが、内モンゴルでもモンゴル語教育が減らされ漢語教育が強化されるなど、懸念が広がっています。

 

(つづく)