中国と周辺の歴史2


その弐 マカオ

 

 マカオは、香港とは似たようで異なる歴史を持っています。
 中国中央の政権の支配に入ったのは香港と同じ頃だろうと考えられますが、清の前、明の時代に、ポルトガル人の居留が認められています(1557)。
 マカオからは貿易の利益の一部が明に上納されており、清になってからも同様だったようですが、アヘン戦争など清の弱体化の後、停止し、やがてポルトガルに正式に割譲されることとなりました(1887)。
 第二次世界大戦では、本国・ポルトガルが中立国であったので、日本軍の占領はありませんでした。
 ポルトガルから中国に返還する共同声明調印は、香港のそれより少し後(1987)。ただし、1966年のマカオ暴動から実質的に「親中派」の影響下にあり、カジノを温存したい中国側も返還に消極的だったといわれます。
 中国に返還され、特別行政区になったのは、1999年12月20日です。
 香港同様に一国二制度ということにはなりますが、香港のような激しい民主化運動は起きていません。カジノの収入も多く、1人あたりGDPは香港よりかなり多くなっています。

 香港もマカオも、古くから中国の領土でした。王朝の交代期などに一時的に独立政権の支配下に入ったとしても、中央政権の版図に含まれていた時間が圧倒的に長い地域です。中国全体を家族とするなら、清の終盤に英国やポルトガルが強引に連れ去っていた子どもたちを、やっと取り戻すことができた、というところです。ただ、連れ去られていた間に、西欧流の文化やぜいたくを覚えてしまったので、当分(50年間)は、西欧風の生活習慣を認めよう、という約束をしました。
 それはかまわないのですが、帰ってきた子どものうち一人(香港)は、親(中国中央政府)からすれば、言うことを聞かず、もっと自由にさせろ、と主張します。これを放置すると、大陸本土に残っていた他の子どもたちも、親の言うことを聞かなくなるかもしれない、と親は恐れました。それで、厳しめの「しつけ」をしたところ、当の子どもだけでなく、子どもを連れ去っていた英国やその仲間たちも激しく非難するようになりました。親もむきになり、「しつけ」をエスカレートさせていきます。
 一方、もう一人の子ども(マカオ)は、生活習慣は以前のままですが、表立って親には反抗せず、カジノで稼ぐ、親から見れば「いい子」です。
 よいたとえかどうかわかりませんが、私はそのように理解しています。


その参 チベット

 

 香港やマカオと異なり、チベットは中国中央政権の支配下ではないところで歴史をはぐくんできました。
 吐蕃王朝が成立したのは7世紀の頃です。8世紀には、日本、新羅などと、唐朝での席次争いの記録があります。
(当初、西の第一席が吐蕃、第二席が日本、東の第一席が新羅、第二席がイスラム帝国だった。日本が抗議して、新羅と日本が入れ替わった。)
 吐蕃が直接日本と争ったということではなさそうですが、ともかく、吐蕃は唐から見れば外国扱いだった(朝貢するか戦争するかは別にして)というのはたしかです。
 以降、諸勢力が分立したり、モンゴル帝国や明朝の宗主権下で自治が認められたり、実質的に独立したり、という歴史が続きました。
 清の時代、何度かチベットへの出兵があり、チベットの領域を再編して他の省に含めたりしましたが、清の宗主権にあったにしても、チベット自治を認められていたのは同様です。
 清末期には清朝の権威は崩壊し、やがて、実質的にチベットは独立しました。
 第二次世界大戦終結後、中国では国共内戦が起き、共産党が勝利し、国民党政権は台湾に移りました。
 その後、中国人民解放軍チベットに侵攻し、それでも当初は自治が認められるはずであったのに、チベット動乱、虐殺、ダライ・ラマのインド亡命、文化大革命(これの影響はチベットに限りませんが)などを経て、中国側の支配は厳しくなっていきます。
 なお、胡耀邦氏が党主席・総書記(1981-1987)時代は緩和され、チベット語教育、信教の自由などが謳われましたが、同氏の失脚後は弾圧に転じました。ちなみに、亡命中のダライラマ14世は、平和的解決を呼びかけ、1989年にノーベル平和賞を受賞しています。
 香港やマカオは「中国に帰ってきた子どもたち」(ただし、香港は虐待されている)ですが、チベットは独立していた時代や、少なくとも広範な自治権を有していた時代が長く、中国の中央政権の実質的な直接支配に属している今の時代の方が例外的といえます。

 

(つづく)