中国と周辺の歴史1

 前記事までの3記事で、香港返還に関する英中共同宣言について紹介しました。太字や色付き文字などで強調している個所を見れば、返還に際しての約束を、中国が守っているのか、という懸念があります。
 というより、はっきり守っていません。

 

それなら、英国は香港を返還すべきではなかったか、といえば、歴史的には難しいところです。

 

 ここでは、なるべく「中国は悪者」という国際的な風潮にはとらわれず、もちろん中国政府が主張する詭弁強弁にも左右されず、中国とその周辺の地域について、歴史的な視点から考えていきたいと思います。

 

壱 香港

 

 香港は、秦の時代(BC3世紀)に中央の王朝の支配下に入りました。「週刊ヤングジャンプ」連載中の「キングダム」は、春秋戦国時代の末期、秦が中原諸国を統一しようとする時代が舞台ですが、それより少し後、秦が中原を統一してから辺境に領域を広げていく過程で、現在の香港に相当する地域も秦の版図に入りました。
 だから、「中国の周辺」ではなく、中国本土といってもよいでしょう。
 それが、なぜ英国領になったかというと、(当時の)英国が悪辣だったから、といわざるを得ません。
 清の時代、中国の物産は豊かで、英国との貿易収支は英国の大赤字でした。紅茶好きの英国人は中国から大量の茶葉を輸入し、陶磁器や絹織物なども購入しましたが、中国はそれほど好んで英国から輸入したいものがありませんでした。窮した英国は、当時植民地であったインドからアヘンを中国に運び込みました。アヘンの習慣自体はこのときに持ち込まれたのではないようですが、アヘン中毒者が増加し、代金としての銀も大量に流出したため、清はアヘンを厳しく取り締まりました。これは現在の私たちから見たら当然の対応だと思いますが、結果として英国と清は戦争になり、勝った英国が不平等条約を清に押しつけることになりました。
 香港島が英国の植民地になったのは、このときです(1842年・南京条約)。
 この後のアロー戦争後、九龍半島南部も英国領になりました(1860年・北京条約)。
 さらに、新界地区も英国の租借地となりました(1898)。租借期間が99年間なので、1997年が期限ということになります。
 ずっと後になり、第二次世界大戦では日本軍が占領しましたが(1941-1945年)、終戦後、英国の施政下に復帰しました。
 やがて、新界地区の租借期限が近づきました。当時のサッチャー首相は、香港と九龍地区は英国の永久領土で、新界地区のみの返還を考えていたようですが、当時の中国側の最高実力者であった鄧小平氏が香港全土の返還を強く要求しました。鄧氏が水の供給停止や武力行使を示唆した、という情報もあります。
 結局、英中共同声明により、租借地だけでなく植民地となっていた香港なども中国への復帰が決定しました(1984署名、1985発効)。
 1997年7月1日に、すべて中国に返還されました。

 

 英中共同声明については、こちらからの3記事で紹介しています。
 (https://jukeizukoubou.hatenablog.com/entry/2021/01/13/211515

 

 「五十年間は変えない」(つまり2047年まで)と明記されているものがどんどん変えられているようなので、ひょっとすると中国本土では時間の流れや暦法(カレンダー)が国際標準とかけ離れているのかもしれませんが(笑)
 中国は、最初から英中共同宣言、一国二制度を守る気がなかったのでしょうか。
 断定することは困難ではありますが、鄧小平氏サッチャー氏と交渉した頃、共同宣言を締結した頃(1984)は、本気で守るつもりだった可能性がある、と個人的には思います。
 その後、1992年に最後の香港総督として、クリストファー・パッテン氏が就任しました。彼は最後の5年間、立法会の直接選挙による選出議員を増やすなど香港の民主化に尽力しました。それで、中国共産党には嫌われ、かなりの批判を受けたようです。共同宣言の頃に想定していたよりも民主化の進んだ香港を返還され、「話が違うじゃないか」という想いが中国首脳部にはあったかもしれません。どちらかといえば、「資本主義は維持する。私有財産の保持も、投資の自由も認める」という方向に重点があり、言論や政治行動の自由の方は軽視していたかもしれません。
 民主化は総督の旗振りだけで進むものではなく、また、今の日本社会に住む私たちがパッテン氏を批判する立場ではありませんが、もしも最後の英領香港にパッテン氏がいなかったり、民主化の進展がもっとゆっくりだったら、いくらか違った事態になっていた可能性は否定しづらいところです。
 香港市民の側からすれば、ともかく民主化された社会を知ってしまいました。年配の人々は、パッテン総督時代以前の状態も記憶していますが、若い人々は民主化された社会で教育を受け、インターネットに接続し、ついでにサブカルチャーも含む日本情報などにも触れながら育ってきました。
 もちろん、一律に若い人は民主派、年配の人は親中派、というわけではありません。たとえば、中国共産党に批判的な書籍を多く発行して謎の失踪をし、台湾に移住した「銅鑼湾書店」の店長は、60代です。が、民主化運動に身を投じる人に若年層が多いのは、無理がないように思います。

 

(つづく)