神戸新聞とラジオ関西と

阪神・淡路大震災の頃の週刊誌を保存している話を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/jukeizukoubou/33679321.html

暇を見て読み返したりしていますが、量が多いのと、あの頃のいろんな想いが蘇るのとで、なかなか記事にはまとまりません。

本質的な、重い問題は、まだまだ無理かな・・・


その中で、被災地のマスメディアについての記事が目に留まりました。


被災したマスコミ 神戸新聞社 そのとき記者たちは?

週刊文春 平成7年2月2日号)

神戸新聞社の7人の社員が肉親を失い、家屋が全半壊した社員は69人にのぼることが書かれています。

さらに。
本社ビルのほとんどのガラス窓が割れ、手前に傾き、コンピュータも完全にダウン。
かろうじて生き残った電話は2台のみ。

以下、週刊文春より引用
 絶望の淵から救い出してくれたのは、昨年一月に締結した京都新聞との災害相互援助協定。
(略)
 取材原稿を京都新聞に送ってレイアウトし、印刷フィルムを作成。それを幸い難を逃れた製作センターに輸送して印刷。綱渡りの連続の末に夕刊の印刷が完了したのは、震災当日の午後八時だった。
(略)
 現在、一面と社会面以外は京都新聞の記事を借り、ページ数も通常の半分程度だが、従来通りの部数を発行している。

このほかに、足りない電話回線を隣の歯科医院から借りたり、実母の死を隠して陣頭指揮をとった部長とか、瓦礫の中から「神戸新聞」の題字の版を見つけ出して9時間かけて京都まで送り届けた話とかが掲載されています。


社屋も崩壊! ラジオ関西の報道部に"入社"を命ず

週刊宝石 2月23日号)

こちらは、同誌の「実験隊転職体験シリーズ」の第1回目とされています。

ラジオ関西は、当時は神戸市須磨区公団住宅1~2階に本社があり、この建物も損傷が大きかったようです。

生放送中に地震、停電、ザーッという無音状態、18秒後に自家発電装置に切り替わり、復旧作業を経て、わずか13分間の中断で放送再開。

以下、週刊宝石より引用
<大きな地震があった模様です>
 これが緊急放送の第1声。共同電で震源地と震度の第1報が入ったのは6時10分。まだ何が起こったのか正確には分からない。
 目撃した局内や近所の様子を伝える一方、スタッフは社員名簿で社員に連絡をとる。出社できたのは3分の1ほどだが、出社途中で目撃した情報を報告し、それをリスナーに伝え、リスナーにも情報の提供を求めた。電話は鳴りっ放しとなった。
(略)
 緊急放送は災害報道、生活情報に絞り込み24時間態勢で行われた。

女性オペレーターの話として、
「個人的に別荘を開放します」
「美容師さんたちが○○公園で洗髪やカットの無料奉仕をしています」
などの情報も伝えていたそうです。



私は「文春」「宝石」以外に、新聞社系の週刊誌も保存していますが、ライバルともいうべき他のメディアについての記事が掲載されていたような記憶がありません。

(ちなみに、「神戸新聞は潰れたので」といって新聞勧誘に回っていた全国紙の勧誘員がいたとかいう話は、被災地に居住していた人から聞いたことがあります。私が直接聞いたのはプロ野球球団の経営に関わっている新聞ですが、他の全国紙もあった、との未確認情報も。)

そういう思惑?に反して発行を続けた神戸新聞はすごいと思いますし、京都新聞、歯科医院などそれを支援した人々も素晴らしいと思います。

ラジオ関西のほか、サンテレビの放送も大変だったようで、関心のある方は、同社のウエブサイトをどうぞ。
https://www.sun-tv.co.jp/shinsai/hd-eq115.html