「社会への貢献」って何でしょう?

前記事の関連で、もう少しだけ。

 

橋下徹氏のツイッターの中で、

「社会に対して何の貢献をしているのかわからん仕事でも学問の自由の名目で許される。」

という一文があります。


部分的に切り出して発言者を論じるのは不適当な場合があるので、これは橋下氏への批判というわけではありませんが、

「社会に対して貢献をしている学問」

というのは何でしょうか。

 

自然科学分野では、比較的わかりやすいですね。
たとえばノーベル賞を受賞した青色LED。
IPS細胞も、素人にはわかりにくい面がありますが、解説されれば、凄いなあ、という感じは伝わります。

 

同じノーベル賞グループでも、経済学賞(これは正式にはノーベル賞ではなく「アルフレッド・ノーベル記念なんとか賞」とかいうらしいのですが)には日本人の受賞者がないのですが、受賞理由の解説文を読んでも自然科学分野に比べたら(私には)理解が難しいものが多いです。

アベノミクスに限らず、いろいろな経済対策が(少なくとも一般の国民的には)必ずしも成果が上がっていないように見えて、経済学って社会の役に立つのかな、と疑問に思うことはあります。

 

社会科学系の中でも、社会学(隣接の社会人類学などを含めて)などは社会に貢献し得る学問だと個人的には思いますが、日本に限らず政治家はあまり活用していない感もあります。

 

人文科学系(これは本来の意味=狭義での人文系)では、心理学など他の分野(自然科学系など)と関連が強い分野には、社会への貢献が見えやすいものがありますが、文学部に伝統的な分野では、「経済効果」などは縁が薄いかもしれません。

 

でも、そもそも「社会に対する貢献」って、誰が判断しているのでしょうか?

 

自然科学分野でも、たとえば新型ウイルス(コロナに限らず)に効果がある物質を探す研究を行ったとします。

最初に候補となった物質Aは、研究の結果、対ウイルス効果がほとんどないことがわかりました。
その結果を参考に、別の研究者が、物質Bについて、効果は多少あるが、副作用(副反応)もあることを発見しました。
また別の研究者が、物質Cについて、効果かあり、副作用も少ないことを発見しました。
さらに、別の研究者が、物質Dについて、効果等はCと同じだが、量産がしやすいという結果を出しました。

貢献の度合いを結果から見れば、
Dの研究>Cの研究>Bの研究>Aの研究
ということになりますが、先行する研究結果から次の研究のきっかけが生まれた、ということなら、AもBもCも必要な研究、社会に貢献する研究ということになります。
(科学では、「○○は効果がない」ということを確認するのも、必要な研究です。)

 

また、過去にノーベル賞を受賞した人物の研究が、後になって誤りであったことが判明したこともあります。
その当時のノーベル委員会がわからなかったことが、今の私たちのような素人が知っている、というのも人類の進歩の成果、ともいえますが。

逆に、今は評価が低い学問(自然科学系でも社会科学系でも人文科学系でも)が、のちの世で評価される、ということがあるかもしれません。

 

老子荘子など道教で使われる言葉に「無用の用」というものがあります。
役に立っていないように見えるものが、実は大事であったり、必要不可欠であったりすることがあります。

こういう哲学か宗教学か中国文学か何かわからないような分野(失礼)の言葉というのも、ストレスにさらされたコロナ禍の現代人にとっては、癒しになるかもしれません。


最後に蛇足です(この「蛇足」も古代中国の故事からの言葉ですが)。
社会に貢献している学者であったとしても、間違ったこと(たとえば、前記事のPCR検査にからむ橋下氏への批判)を過激な表現で言っても許される、というわけではありません。
逆に、社会に貢献していない(ように見える)人間だからといって、正当な言論活動を行ってはいけない、ということでもありません。