セクハラ報道雑感

このところ、財務省関係の話題が世にあふれすぎている感がありますが・・・


まず、次官のセクハラ問題について。

読売新聞 社説(2018年04月20日)より
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20180419-OYT1T50168.html


前半部分は、次官や財務省の対応への批判で、いろいろ考え方はあるかもしれませんが、この記事で特に突っ込む気はありません。

気になったのは、後半のこの部分。

 テレビ朝日の記者は1年半前から、福田氏にセクハラ発言を度々受け、「身を守るため」に録音した。上司に相談したが、「報道は難しい」と言われた。被害が黙認されてしまう、と週刊新潮に音声データを提供したという。

 取材で得た情報は、自社の報道に使うのが大原則だ。データを外部に提供した記者の行為は報道倫理上、許されない。

 取材対象者は、記者が属する媒体で報道されるとの前提で応じている。メディアが築いてきた信頼関係が損なわれかねない。

 テレビ朝日の対応も看過できない。最初に被害の訴えを受けた際、会社として財務省に抗議などをすべきではなかったか。

 記者を守り、報道のルールを順守させる姿勢を欠いていた、と言わざるを得ない。

「データを外部に提供した記者の行為」を批判するのなら、その代替手段を述べるべきだろうと思います。

自社(テレビ朝日)は公表(報道)もしないし、財務省に抗議もしない。
かといって、その女性記者を異動(次官の取材担当から外す、等)もしない。
つまり、まったく女性記者を守らなかった、としか思えません。

この状態で、その女性記者の取り得る方法は、外部のメディアに情報提供する以外に何があったのか?
読売新聞社説(や、その他この女性記者に批判的なマスメディア)はそれを明示しなければならないと思います。

それをしないのなら、この女性記者の行為は、緊急避難か正当防衛か。
そうでなく過剰防衛の範疇に入るかもしれないとしても、次官のセクハラ発言を世に明らかにするという公益性と、たかが(とあえて言いますが)報道倫理に抵触するということとを比較すれば、公益性のほうが高い、と私は考えます。

そもそも、取材対象者にとって、どのメディアで報道されるか、というのは、メディアの人間が考えるほどには重要なことではないとさえ思います。
取材対象者にとって最も重要なのは、自分の発言が正確に、真意を捻じ曲げられることなく報道されるか、ということではないでしょうか。

もっとも、私は、この読売新聞の社説の論理が気に入らないだけで、テレビ朝日の対応は明らかに批判されるべきとは思います。
根本的には、本人が望もうが会社が強要したのであろうが、異性の記者による個人的接触など取材活動のあり方というものは、もう少し見直してもよいのではないか、とも思います。


それにしても、この次官の発言にしても、森友、加計関係にしても、財務省関係者の言動は、どうにも信用できません。
財務省社会保障費抑制策を主張していることについても、その基礎となる数値に、捏造、改ざん等があるのでは、と当然のように思えてしまいます。

まあ、統計を都合のよいように加工して資料化する、というのは厚労省もやっていますが。