トルコの大震災と日本との友好

<トルコ>宮崎さん忘れない…地震救援、死亡 銅像も設置へ

毎日新聞 2月3日(日)10時19分配信)
 11年11月、トルコ東部の大地震の救援活動中に亡くなったNPO法人職員の宮崎淳(あつし)さん(当時41歳)=大分市出身=の銅像が今夏、トルコ国内の黒海に臨む「ミヤザキ・パーク」と名付けられた公園に設置される。「被災者を救おうとトルコまで来てくれた宮崎さんのことを忘れないように」と、公園がある市の市長が企画した。宮崎さんの母恵子さん(69)は「悲しみは癒えないが、遠いトルコの方々が息子の活動をたたえてくれて元気が出る」と話している。

 トルコ東部マグニチュード7.2の地震が襲ったのは11年10月。多数の人々ががれきに閉じ込められた。宮崎さんは東京都のNPO法人「難民を助ける会」の職員として被災地に入ったが、11月9日の余震で宿泊先のホテルが倒壊し、亡くなった。会に入ったのは約3カ月前で、トルコは宮崎さんにとって初めての海外支援国だった。

 銅像が設置されるのはトルコ西部のゾングルダク県コズル市。地元の芸術家が宮崎さんの顔写真を基に高さ約2メートルの銅像を制作した。昨年夏に市長と会った同県出身で福岡市在住のエンシジ・ムラートさん(36)によると、制作費を市が予算化した。市長は「東日本大震災後の報道を見て、日本人の我慢強さに感動した。その後に、トルコで日本人が犠牲になり、とても悲しかった」と話していたという。公園には既に「ミヤザキ・パーク」と書かれた看板がある。

 ◇各地の公園、診療所に「ミヤザキ」命名

 「難民を助ける会」によると、トルコでは、宮崎さんが亡くなった東部ワン市の大学内の診療所や高校の実験室、イスタンブール市の防災用の公園など、既に複数の場所に宮崎さんの名前を冠した名称が付いているという。特に被災地では宮崎さんの名前は多くの市民の記憶に残っているといい、恵子さんは「昨年5月に被災地を訪れた時に、子供たちからも『宮崎さん』と声をかけられ、胸が詰まった」と話す。

 「難民を助ける会」の堀江良彰事務局長は「宮崎さんが聞けば、照れくさがると思うが、彼の気持ちが銅像のような形で現地に残るなら、うれしい」と話している。【遠藤孝康】

 ◇親日国のトルコ◇

 1890(明治23)年、オスマントルコの訪日使節団の船が和歌山県沖で遭難、多数の漁民が救助にあたり生存者69人を日本の軍艦がトルコに送り届け、国民の歓迎を受けた。14年後に勃発(ぼっぱつ)した日露戦争で、日本海軍がトルコと対立していたロシアのバルチック艦隊を破ったことも親日感醸成につながった。イラン・イラク戦争さなかの1985年3月には、イランに取り残された邦人約250人の救出のため、イラクの撃墜警告にもかかわらずトルコが救援機を派遣した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130203-00000006-mai-soci


トルコも地震国で、これまでも日本が支援したり支援されたりという関係が続いています。

ちなみに、太字部分は引用者による強調箇所ですが、
オスマン帝国の軍艦・エルトゥールル号の遭難と地元漁民の救助活動、
イラン・イラク戦争の際のトルコの救難機派遣(自国民より日本人の救出を優先し、トルコ人もそれを了とした)
のエピソードについては、

「海の翼 トルコ軍艦エルトゥールル号救難秘録」(秋月達郎・著、新人物文庫)

に小説として取り上げられています。
ノンフィクションではなく、実名、仮名が中途半端に入り混じっているのが残念ですが、
感動の作品ではあります。

あ、私は多少なりともトルコびいきのところがあるので、ちょっとは割り引いてお読みください(笑)