「一生背負うべき十字架」とは?

桜宮高校で地域参加の運動会

(NHK 11月10日 18時10分)

去年、体罰を受けた生徒が自殺した大阪市立桜宮高校で、地域に開かれた学校づくりを進めることで体罰をなくそうと、一般の人たちも参加する初めての運動会が開かれました。

この運動会は、去年12月クラブ活動の顧問から繰り返し体罰を受けていた男子生徒が自殺した問題を受けて、桜宮高校が開かれた学校づくりを進めようと初めて開き、地元の住民や小中学生などを含むおよそ500人が参加しました。開会式で大阪市橋下徹市長が「君たちの仲間が自殺したことはみんなが一生背負っていかないといけない十字架でもある。天国にいった仲間のためにも桜宮高校を誇れる学校にしてほしい」と呼びかけました。
このあと競技やスポーツ教室が開かれ、亡くなった生徒が所属していたバスケットボール部の生徒たちは、地域の人と共にフリースローなどを楽しみました。
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大阪市の橋下市長は記者団に対し、「確実に前に進んでいる。体育科の入学試験を中止して正解だったと確信した。来年4月には新たなスポーツ専門科ができるので、誇れる学校づくりに頑張ってもらいたい。入試の中止を生徒たちが少しでも理解し始めてくれたのであれば、これほどうれしいことはない」と述べました。
また、開会式で生徒に対し、「仲間の自殺は一生背負っていかないといけない十字架でもある」と発言したことについて、「仲間が命を絶った事実を忘れてはいけないということだ」と述べました。
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http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131110/k10015946301000.html


維新関係者のネタが続いて恐縮ですが、市立高校に関する市長の発言ということは、
まあ、学校法人の理事長と似たような立場という考え方で、思うことを書きます。

「十字架」という言葉の意味は、キリスト教徒とそれ以外とで差があったり、解釈が難しい面はあります。
「仲間が命を絶った事実を忘れてはいけない」ということについては、私も異論ありません。

ただ、「一生責任を感じていかなければならない」という意味なら、それは生徒ではなく、
学校や教育関係者を含む(事件当時の)大人であるべきでしょう。
その中には、間接的には大阪市長も含まれ、また、理念的には私のような地域外の大人も含まれるかもしれません。

身近なところで悲劇が起きたとき、それを防げなかった自分を責める心の動きが現れることがあります。
部活動で「同じ釜の飯を食った人間」や、普段はそれほど親しくなかったとしても同級生なら起こり得るかもしれません。
それがPTSDや、そこまでいかなくても何らかの悪影響を子どもたちに及ぼすおそれがあります。

生徒が自分自身を過度に責めないように、子どもたちの心の発達段階に応じた配慮が必要です。
そういうことも、周囲の大人が(当面)背負うべき十字架だと思います。

仲間が自ら命を絶ったということを忘れず、
それを当時の大人たちが防げなかった(というより助長した面もあった)ということも忘れず、
自分たちよりも後の世代にはそういう思いをさせないような社会になるよう努力してほしい。
そして、亡くなった仲間の分まで生きて、幸せになってほしい。
もしも私なら、そういう発言をしたいと思います。